昭和43年07月28日 夜の御理解



 お広前を遠ざかるのは信心の抜け始め。お広前を遠ざかるのは信心の抜け始め。忘れてはいないね。思うてはおると言うだけでは信心は進みません。とにかくお広前にはもうしげしげとね、足が向くんじゃなからなければ、信心が向上しよる事はないね。それは必ず人間ですから、お広前を遠ざかっておる、神様をすててはいない。神様は確かに頂いておるけれども、遠のけば段々この小さく見えて来る様になるのと同じ事ね。
 側で見る例えばものと、もう十間も離れる、二十間も離れると段々それが小さく見えて、だんだんそれが見えなくなって来る様に。お広前を遠ざかるのは信心の抜け始め。と同時に神を恐れるようにしてはいけんね。神様には近づかなければいけん。神様にはできるだけ近づかなければいけん。まあ許すならばお広前の一番先頭に出てきて、御祈念でもさせて頂かなければね。今日もお広前の隅の方からでも御祈念したんじゃ、御祈念したごとないというぐらいなものが、実感として出来るようなおかげを頂きたい。
 というて前にこう、一杯並んでおられるのを「御免なさい、御免なさい」と言って押し分けていくという意味じゃないね。許されるなら一番前。今日はあの霊神様のあすこに今日ちょっと漏ってましから、祝詞座が霊神様の前にこう接近してるね。ほんとにねもうこう接近すれば接近するほど、何と言うかね有難い御祈念が出来るんです。まあ私共これはもう昔からでしたけれども、お広前必ずこのお広前の正面に出てきてから御祈念をする。とりわけあの私は善導寺の親教会に参りますと。
 必ず正面に出て御祈念をして、霊神様の前に来たら、あのここの上にあがらんばかりに、この上で御祈念する。私は下から座っとっても、体だけはこちらの上に乗り出してから御祈念する。これは昔、そうしなければおられん、そんな感じがしましたね。皆さんの信心のもう、試してみてごらんなさいね。いわゆるその御神前の出来るだけ側から御祈念をするという意味のことだけじゃないですけれども、そういうひとつの何と言うですかね、憧れと言うか道念心とでも言うのか。
 そう言う様なものが神様に燃えて来ると、そうしなければ居られなくなって来る。お広前の隅の方からども御祈念しとったんじゃね、御祈念したようじゃないというぐらいにですね、やはり神様には近づかなければいけん。形のことではないね。心のことですけれども、そういうおかげを頂きたい。私共が一生を過ごさしてもらう間には様々な事がある。私どものように、もう物心着く頃から、金光様、神様を教えられたね。ですからその信心を頂いておりましても様々なところを通らせて頂いた。
 けれどもいつの場合でもどんな時でもです、神様から遠ざかるいわゆる神様から遠ざかってはならん、そういう思いをいつも私の心の中にあったように思う。先ほど妹がお参りをして参りましてから、今日何か書類の整理をしておるところから、昔の私が北京時代に両親あてに出しておる手紙が一通、まあまぎれこんで沢山出しておる中に、みんな無くなっておる。それが一通出てきたまあそれで、それを宝物のように思うて、そのまあ開けて読んでみた。何回も何回も繰り返し繰り返しまあ読んだという訳です。
 その中にはお届けをする時に書いたままですから、内容私もいっぺん見せて頂こうと思うんですけれども。なんかあの給料を送った時のことらしい。お金を送金したときのことらしい。その中に幾らいくら送金しますから、この中から幾らいくら善導寺の教会にお供え、お初穂して下さいと言う事が書いてある。まあその近況の中に段々商売の上にもおかげを頂いておる。酒屋でございますから。当時北京だけでも大きな造り酒屋さんが日本の有名な酒屋と言う酒屋は大体来ております、十何軒来ております。
 そんなに北京というところは広いところでした。この九州からはここの雪の里ね、甘木の雪の里と、佐賀の窓の梅が来ておった。まあここでも雪の里とか窓の梅というのは、一級一流の酒屋ですが、あちらでもやっぱ立派な工場を持って、立派な製品を出しておりました。その窓の梅よりも自分のところの売りだしておる酒は、これこれ高く売ってると、言う様な事を、まあ書いておるらしい。確かに窓の梅が五円の時には、私共の酒は五円五十銭で売ると。五十銭でもというて品質が良いというわけでもない。
 というてレッテルが売れてるわけでもない。けれども他所よりも五十銭でも高う売らなければ気が済まなかった。まあ私の商魂たくましかったことが、そこにちょっと考えられるんですけれどもね。信心をさして頂く者が人が十銭で売るならね、八銭で売れと。目先は二銭損のようでも、数が売れるからそれの方が徳だというふうに、はっきり教えておられるのにもかかわらず、私は信心をあの北京から引き揚げてくるまで、長年商売さして頂いておったけれども、教えをいわばそういうふうに頂いてなかった。
 人が十銭で売るもんなら十一銭で売らなきゃ気が済まなかった。それが商売の腕だ。それが私が人よりもちょっと上手だから商売が。というふうに自分で思い込んでおったね。ですからもう明らかにその、教えとは逆行してるわけですね。いうならば神様からこう遠ざかっとる。神様の言われる言葉はだいぶん遠ざかっておる。けれどもです神様にはそれでもやはり接近しておるね。どれだけ出来るだけ他所よりも余計儲けといてから、その儲けた分はお供えしよう。
 それで神様に喜んで頂くものと言う様な、まあ考え方をしておった。間違いけれども、それでもやはりおかげを受けてきたね。例えば蚕さんがかわりますね。もういつもあの桑の葉の上でずうっと朝から晩まで、もうバリバリバリバリ桑の葉を食べておる。もうこげん卑しい者はない。人間の生活というものも、まあいうならば蚕さんのようにね、それこそ卑しい生活であろうね。厳密に言うたら蚕さん以下かもしれんね。そういう卑しい心を皆が持っておるね。けれどもね。
 けれども私ども信心させて頂く者はね、それでもやはり神様から遠ざかってはならないね。段々蚕さんがね、いわば喰い上がって行くと言う事を申します。透き通るようになる。私どもが信心させて頂くところの目指しというものはね、どこまでも金光大神を目指して、我が心が神に向こうていくのを信心というのじゃと仰るから、神様に向かって一生懸命信心をさせて頂く。自分の心が神心になっていくことを楽しみに信心さしてもらう。それでもやはり卑しいことは止められない。ずうっと続いておる。
 けれどもねそういう例えば、生な人間ですから生々しい、様々な事もありますけれどもね。けれどもそのそこに流れるものは一貫してです、いつも我が心が神様に向こうておらなければならないね。喰い上がったら、もうその蚕さんがねもう透き通るようになる。汚いものが無くなってくる段々ね。そして最後はねあの繭の中に入ってしまうね。喰い上がっていわばその繭の中に入ってしまう。
 そしてその繭からあの絹糸を出して、それが絹の着物、反物に変わっていくことの為に、この例えば卑しいというその、バリバリ桑の葉を食べておる噛んでおるのもね、目指すところはそこにあるのですね。私共でも過去若い頃のことからを、こう振り返ってみると、ほんとに脇の下から汗の出る様な事がある。今考えてみると。けれどもそのどのような場合どこを拾ってもです、どういう場合であってもです、どういう我情我欲で一杯の時であっても、そのそこに流れておるもの。
 それはいつも信心であり、我が心が神に向こうているのであり、そういう時であればある時ほどにです、この中からお供えして下さい、といったようにですね。そういう時であればあるほどに神様の前に平身低頭、詫びて近づいておるという時ですね。私共でもまあだ卑しい心が一杯である。けれどもゆくゆくはね、神を目指しておるね。透き通るような私になりたい。そして繭を張りたい。繭の中に入っていってもね。
 例えばなら私が死んで、いわば御霊様になっても、御霊の働きの頂けれる御霊として、徳を受けてね、後の世までもそれが、お役に立たしてもらえれるようなおかげを頂きたいと言う事が願いである。目指しであるね。そこをお互いがです目指しとかなければならない。為に神様にいわば神と仲ようする信心ぞと仰るように、神様の前にね、恐れるようにしてはならん。自分にどういう心に後ろ暗いところがあってもね、あればあるほど神様に近づいていかなければいけんね。
 そこに平身低頭ねお詫びの信心、いわゆる謙虚な信心がその中から生まれてくるね。目指すところはね、喰い上がっていくと言う事。もう卑しい心などはいわば自分の心の中に透き通るように、綺麗になっていくと言う事を目指さなければならない。そして繭を張っていく。繭の中に収まっていくと言う事が、いわば究極のところ目指さなければならないね。死んでいく時にもあの世にも持ってゆけ、この世にも残していけれると言う様なおかげを頂かしてもらうおかげを頂いていかなければならない。
 まあお互いまあバリバリと桑の葉を、今噛んでおるところじゃなかろうかと思う。それでもですそれでも信心のある者は、目指すところは神様。我が心が神に向こうておらなければならないと言う事だね。どうぞそういう場合であっても、神の前を離れるね。神から遠ざかる。というのではなくてならばなる、そうである程にです、神様の前に近づいていくような工夫をさして頂かなければならないと思うですね。
   どうぞ。